三日月の夜に 愛に恋

月語りと好き語りでお月愛

月子の家の話ー母の日の前にー



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私は長女。四歳下に妹、九歳下に弟がいる。若い夫婦の初めての子どもが、この私。まだ若かった母にとって、癇が強く泣いてばかりいる私の育児は本当に大変だったらしい。まぁ、育児は若くなくても大変だけどね。こちらの思うようにいかないことだらけだし。




時は昭和の高度経済成長期。父は子育てを含め家のこと全てを母に任せきりにした。平日は仕事、飲み会。出張で留守にすることも多く、母は今で言うワンオペ育児をしていた。




子どもが二人になっても三人になっても、それは変わらなかった。私の中の父の記憶は、スーツを着て出勤する姿と、休日にゴルフから戻り、家でゴロゴロしてる姿。家族旅行とか、遊んでもらった記憶は殆どない。




四歳年下の母とは仲睦まじい夫婦って感じでは無かったかな。破れ鍋に綴じ蓋夫婦。何やかんや言っても二人が一緒にならなければ、私たち妹弟はこの世に存在しないわけで。感謝感謝。




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サラリーマンだった父が、ある時脱サラし起業した。その経緯の詳細はわからない。でも私達の教育費が嵩む頃のこと。長く専業主婦だった母が看護師として働き始めたのもその頃からだったと思う。父の会社は羽振りの良い時もあれば、当然その逆もあり。




当時、進学の為上京していた私は、親がどんな思いで仕送りしていたのかなんて露知らず、遊び呆けてた。そんな時も、何とかやってこられたのは母のおかげだろう。




ーお父さんの会社が潰れようと、家を取られようと、命まで取られるわけじゃないからねー




母は、あっけらかんと笑った。




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思えば母は、いつも誰かの世話ばかりしていた。同居こそしてなかったけど、明るい性格と職業的信用もあったのだろう。母は頑固で煩い義母に気に入られていた。義母と仲が悪かった実の娘(母にとっては小姑)や、同居の嫁との間を取り持つ役割を母は担っていた。




義父母を看送った後、暫くして私が結婚出産。母は若くしておばあちゃんになった。仕事をこなしながらも、産後実家に身を寄せていた私と孫の世話をしてくれた。その数年後、東京在住の妹が双子を妊娠出産した時も、母はスーパー助っ人となった。里帰り出産をした妹と孫たちを東京まで送り届けた直後、今度は切迫早産気味になった私の家へ通う日々となった。母がゆっくり出来ることはなかった。




よく、生まれ持ってとか、そういう星の下に生まれたんだよ、なんて表現を使うことがあるけれど、本当にそんな表現がしっくりくるような母だった。母は常に誰かの世話をするという星の下に生まれて来たような人だったから。




自分の姉の夫が病気になった時も、病院を探して付き添い、医師の話を聴き闘病を最期まで見守った。その姉が病気になったときも全く同じことをした。その姉の娘(母にとっては姪)が若くして癌だとわかった時も、最期まで彼女に寄り添っていた。自分の事より常に姪を優先して。それは義務などではなく心から姪を思ってのこと。私は、話を聴きながら思ったものだ。




よくもそこまで自分を犠牲にしてまで誰かに尽くすことが出来るなぁ。お母さんは、ずーっと誰かの世話をして生きてきたよね。だから、そのご褒美として皆んなに世話をして貰えるような、そんな最期になるんじゃないかな。だってさ、そうじゃないと割りが合わないよ全く。




姪っ子の初七日が終わった翌日、ようやく一息ついたと思ったその日、自分の夫(私の父親)が自分の目の前で脳梗塞で倒れたのだ。看護師だった母は、父に何が起こったのか、その瞬間に全てを理解した。もしも、母が誰かを世話する星の下に生まれたのだとしても、これはあんまりだ。母が可哀想だよ。あまりにも。




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父が倒れてからもうすぐ九年になる。要介護5となった父は、お陰様で施設でいまも生きている。それまで散々苦労をかけ続けていた母に、一度も下の世話をさせる事なく今があるのは、とりあえずあの約束だけは父が守ってくれたからだと私は思ってる。




ーお母さんに、最期は迷惑はかけないよー



 
父が施設入所後も、洗濯や様々な差し入れや介助が必要となり、それなりに忙しくしていた母だけど、昨年のあのVirusにより施設訪問が出来なくなった。遠方に住む私や妹だけではなく、車で行き来できる距離に住む弟家族にさえも、会う事が難しくなった。母がずっと続けてきた役割がなくなった。





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いつ頃だっただろうか。電話のやり取りで、薄々気がついていた。昨年、義父の葬儀の際には、完全に気がついていた。本人は、検査もしているし何も異常が無かったと言っていた。でも、異常がないわけがない事はわかりきっていた。




この連休中、義父の納骨で帰省をする事になり、隙間時間に母を病院へ連れて行くことができた。約一年ほど前、自分で自分が不安だった母が、脳外科を受診した経緯とその時に受けていた検査の結果を医師から聞かされた。




母は、一年前にすでにこの状態になっていた。それは私が危惧していた通りの診断だった。すぐに弟と妹に連絡した。二人は、年だから仕方ない、あまり触れないようにしようよ、なんて事を言う。




そうじゃないんだけどね。これから母に起こりうる事を想定しつつ、いつまで続けられるかわからない母の独居生活を支えるために、私たちが出来ることを考えていかなきゃならないよ。家族は、色んな覚悟をしなきゃならないんだよ。




弟は言った。つきこさんは怖いっすね。
妹は言った。あまり追い詰めないでね。




二人はきっとこう思っている。いろんな手続きや、面倒な話は長女の私がやるんだろうと。やるべきだろうと。二人は、あまり事の重大性を感じていない。




母は私に言った。




ー今はまだ誰かに迷惑をかけたりはしていないと思ってるの。でも、困ったことがあったら聴いてね。ー




そして、母は泣いた。




ーつきちゃんに、病院に付いてきてもらって本当に嬉しかった。ー




嬉しかったと言って、母は泣いた。不安だったんだね。一人で病院へ行くのが怖かったんだね。厳しくて怖かったけど、しっかり者でパワフルで、スーパーウーマンみたいな母は、もうそこにはいなかった。




その翌日。前日、医師が言った「一人暮らしをするのはギリギリのところですね。」という言葉を、母は全く覚えていなかった。




さぁ、長女つきこ、どうする。私に何が出来る?取り急ぎ、僅かな滞在期間中に出来たのは介護認定申請の依頼と、信頼のおける母の友人や親戚などに連絡をすることぐらいだった。





お母さん、もういいんだよ。お母さんは今まで十分すぎるほどにいろんな人を助けてきたんだからもういいんだよ。そろそろお母さんが、いろんな人に助けてもらう番が回ってきただけだよ。





私に出来ることは何でもするよ。何でかわかる?長女だから?うーん、少し違うかも。私がやりたいからだよ。お母さんもそうだったんでしょ?自分がしたいから、今までいろんな人のお世話をしてきたんでしょ。私には、その気持ちがわかるんだよ。





そして、なにより家族だからだよ。
長瀬智也も言ってたよね。





それは、そういうもんだからだよ。







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これがリアル月子の家の話だ。